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   中村ユキ・タキからのお知らせ(その2)
   です。
-お知らせ 2
 お母ちゃん永眠のお知らせ

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YUKITAKI (中村ユキ・タキ)
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お母ちゃん永眠のお知らせ
ゆきたきHPに足を運んでいただき、ありがとうございます。

2013年9月8日、わが家のお母ちゃん……中村ユキの母が他界しました。謹んで、ここにご報告させていただきます。




2011年、震災を機に体調を大きく崩し始めたお母ちゃん。不安を減らそうとユキの郷里であるなじみの地に家族で引っ越して、しかし浮き沈みは激しく、精神科病院への入退院を繰り返していました。


2012年の暮れ、お母ちゃんが在宅生活中に自殺未遂を図りました。大きなケガを負いながらも、幸いなことに脳や脊髄・臓器は損傷を免れましたが、しかし右目の視力を失い、四肢の大幅な不自由さが残りました。

「こころの障がい」と、さらに「からだの障がい」を負ったお母ちゃんの「回復」。その道程は、これまでにない、迷い悩む手探りな毎日でした。


しかし、主治医の先生や看護士さん、相談員さん、地域活動支援センターの担当さん・みなさん、そしてお母ちゃんの友人知人のみなさん、ほか書ききれないほ ど多くの方々が手を差し伸べてくれたことで、どこか後ろ向きで頑なになっていたお母ちゃんの気持ちが、少しずつ前を向き始めました。ユキタキも、退院して また一緒に暮らそう、そのためにここまでリハビリを頑張ってみて、と伝え、お母ちゃんも、取り組もうとしてくれるようになりました。


トイレや洗顔など、身の周りのことがある程度一人で行えるようになり、退院に向け外泊という形で、一度家に帰りました。床座の生活は困難となったため、初 めてベッドとテーブルセットを購入。ずっとコタツでごはんだった中村家、テーブルもいいね~と笑いながら、退院後の活動場所や通院など、新たな生活につい て語り合いました。


そして、9月8日を退院日に設定。退院後すぐ地域の支援に繋げられるよう、多くの方々が動いてくださいました。お母ちゃんも、具体的な日にちが決まったこ とで、より前向きな気持ちになり、「はやく家に帰りたい。鳥と遊びたい」と、久しぶりに引っ越し前の頃の元気な声で、表情を輝かせて。9月8日に向け、手 前味噌ですが、着々と順調に、再スタートの環境は整いつつありました。




9月7日15時頃、病院から電話がありました。お母ちゃんが、部屋で、売店で買ってきたお菓子を喉に詰まらせ心肺停止、救急搬送されたとの連絡でした。

スタッフの尽力で心臓は動き始めましたが、自発呼吸は行えず。数日様子を見たうえで、復調が望めるのか、脳死に至っているのかの判断をしましょう、覚悟はしておいてください、と先生。

ひとは「その時」あちらに行くのか、戻って来るのか、自分で選べるんだよ、と聞かされたことがあります。「帰ってきてほしい。また一緒に暮らしたい。で も、お母ちゃんがいちばん楽なようにしてね」。声をかけたそのとき……偶然でしょうが……残された左目から、ひとすじ涙がこぼれました。

人工呼吸器は付けているけれど、血圧・脈拍・酸素濃度も平常値。きっと大丈夫、と声を掛けあいながら、着替えを運び、一度自宅に戻りました。



深夜2時過ぎ。血圧が下がり始めたとの連絡。タクシーの中で、一時的なものだ、すぐ復調するよと自分たちに言い聞かせながら、どこかで覚悟もしていた。

3時過ぎに到着した時は、血圧の上が35ほど。酸素濃度は70%を切っていました。涙で声をかけ続け、
4時2分、二人が見守る中、お母ちゃんは穏やかな顔で冥府に旅立ちました。娘夫婦は最大の親不孝をせずにすんで……

しかし……なにも退院当日に逝かんでも。これじゃ出来過ぎのネタだよ、お母ちゃん。



翌日、お母ちゃんは小さな壺に収まり、自宅に帰ってきました。鳥たちはいつものように元気に鳴き、年をとらなくなった家族を迎えてくれました。



「会わない」が「会えない」になったことが寂しい。
「言わない」が「言えない」になったことが悲しい。
「伝えない」が「伝えられない」に……
もっとああしてあげたかった、一緒にあんなこともしたかった、もっとこんな言葉をかけてあげればよかった、あんな言葉をかけるんじゃなかった。残念で、無念で、後悔ばかりが溢れて。


けれどね、


時に「消えたい」とこぼしていたお母ちゃん。外科手術のあと、ひところあれほど頑なだった、誰も近付かせないような空気をまとっていたお母ちゃんが、にっ こり「家に帰りたい。退院を楽しみにしている」と、心からの笑顔で言えるようになった。そんな前向きな、希望に満ちた気持ちの中で最期を迎えられたこと は、残念だけれど、無念さもあるだろうけれど、それはそれで悪くなかったのかな、と。そんな風に自分たちを慰めてもいいのかな、と。

そう考えようと思います。

お母ちゃんの一番の望みは、いつも、愛娘夫婦と、身近な人たちの幸せだったから。残された者たちが、心みだし、後悔の念にさいなまれ涙に暮れることを、彼女は望んでいない。

だから、笑って平常運転でいこうと思います。



お母ちゃん、今度の「入院」はちょっと長そうかな。でも、そっちはきっと……手すりの無い段差だらけの賃貸より、きっと心安らぐ場所だよね。






ここまでお読みいただきありがとうございます。






ユキタキがいちばん伝えたいのは、以下


身近な方々に、上記の経過を伝えたとき、「それって過失事故じゃ!?」との声を多くいただきました。

たしかに、発見が早ければ、所在確認がもっとされていれば、喉につまるような菓子を売っていなければ、買えなければ、、、、、
不備や不手際に目を向け始めたら、原因や事後対策はどんどん出てくるでしょう。

けれど、精神科病院は、いわゆる「病院」「施設」と違い、一生そこで暮らさざるを得ない事情の、病院が「わが家」である方々も過ごされている。

自分の「家」の中で、

四六時中、居場所を、行動を、詮索されたいですか。 「危険だから」「安全のために」と、外に出るな、そっちに行くな、一人になるな、食べるな、飲むな、あれするな、これするな、

自由に動くな

自由に生きるな


それらが必要な場面があることも理解しています。でも、ずっと、終わりなく日々ずっとなんて、ユキタキはそんなのイヤです。


天気がいい日には、外に出て季節を感じたい。血糖や血圧が大丈夫なら、小腹が減ったらお菓子買って一袋全部食べたい。「ずっと見張られている」家では暮らしたくない。

ふらっと散歩して、気に入ったおやつを頬張る、ささやかな自由が「危険」なら、際限なく終わりの見えない束縛と引き換えの「安全」より、そちらを選びたい。



だから、残念な結末ではあるけれど、過失等とは考えていません。



もちろんこれは、関係各位との信頼関係があってこそ辿り着いた想いではあります。病院のみなさんは、本当に本当によくしてくれました。故人へのより良い支援に向け共に歩めたことを、嬉しく、誇らしく思います。


精神科病院について、正直悪い噂が聞こえてくる場面も少なくありませんが、

今回、気の置けない、信頼に値する病院、ドクター、スタッフ、支援者に恵まれた。それらも含め、お母ちゃんの最期もまぁ悪くなかったかな、と。好きな物食べながら河を渡れるなら、それもよい往生じゃないかな、と。遺影の笑顔に苦笑しつつ、穏やかに受け止められるのです。



繰り返しになりますが、残念な出来事ではありましたが、笑って平常運転でいこうと思います。



それが彼女の願いだと信じられるから。



これまでの感謝と、これからもよろしくの気持ちを込めて。


ありがとうございました。

 

在りし日の母娘 その笑顔をとこしえに



2013年9月 中村ユキ・タキ(記)


© YUKITAKI――